9回出撃して9回生還した特攻隊パイロットの実話「不死身の特攻兵」(鴻上尚史)を読んだ

「特攻に9回出撃し、爆弾を落として9回生きて帰ってきた人がいるんです! しかもまだ生きてると知って、僕はその人に会いに行ったんです!」 と、一時期あちこちのラジオ番組に鴻上尚史氏がゲスト出て、そのたびに興奮気味に語っていたことがありました。

「特攻に」「9回も行って」「(特攻でなく)爆弾を落として」「9回」「帰ってきた」「しかも21世紀にも生きてる」という聴いただけでは意味のわからなすぎる話に、俄然興味を惹かれて買いました。

驚くほどの飛行機好きっぷり

本書は元特攻隊操縦士の佐々木友次(伍長)から鴻上氏がインタビューした話といくらかの資料をもとに、佐々木氏の生涯を紹介し、特攻隊および日本型組織に関する考察を行うものです。ちょうど日大アメフト部の問題なんかにも重なるテーマとなっています。

佐々木氏は幼少期から飛行機が好きで、けっこうな難関であったらしい試験を通って逓信省の航空機乗員養成所に入り、予備役となります。その後陸軍初の特攻隊万朶(ばんだ)隊の一員として指名され、戦地であるフィリピンに向かったそうです。

「万朶」とは多くの花を付けた枝のことで「朶」とは垂れ下がった枝の意味だとのこと。「耳朶」以外での使い方を知らなかった。

本書でポイントとなるのは、以下の点です。

  • 佐々木さんが自分の操縦技術に自信を持っており周囲の評価も高かった。周囲の評価と同情が生還につながったと思われることもあった
  • 「威力不足で敵航空母艦を沈められない」という特攻戦術への不信があった
  • 上官が「爆弾を落として帰ってくる」ことが可能な環境を整えてくれた。おそらく初代特攻隊だったからこその葛藤と工夫があった
  • 特攻で死地に赴くためでも飛行機に乗れば心が躍るほどの飛行機ガチ勢だった
  • 佐々木さんが下士官(伍長)であり、士官ほど責任を追及される立場になかった。参謀に「特攻は無駄」とか言って怒られ疎まれ懲罰的な処置を受けてもギリギリ生きていたのは、確定で死ぬほどの懲罰には至らなかったためと思われる
  • 爆撃を受けて数メートル離れたところにいた同僚は死んだけど自分はかすり傷で済んだ程度に強運だった

実に凄まじい話で、こんな人が実在したのか! という驚きがありました。

「止める人」がいなくなる日本型組織

終盤の第4章に、特攻と日本型組織に関する鴻上氏の考察があります。特攻ではパイロットを「志願」させるために上官があの手この手で圧をかけたという話にを今読めば、ここでもアレか…と感じるでしょう。一方でなぜ日本軍が特攻を始めたかという考察では、特攻先述の考案者とされる大西瀧治郎中将の次のような言葉を引いています。

天皇陛下は、このことを聞かれたならば、必ず戦争を止めろ、と仰せられるであろう」

これは、インパール作戦について牟田口廉也中将が「俺の表情から察してこの作戦やめましょうって言ってほしかった」みたいなことを言ってたとされるのと同じヤツか?

日本型組織は始めたら止める人がいない、特攻を始めた頃でも国民の戦意は高く、特攻隊員は新聞のストーリーとして消費されていったのだ、といった意味に取れる考察が行われます。戦争の「所与性」(ここでは「前提としてあるべき状態となっていること」ぐらいの意味か)というのは、考えたことがなかった。

国民の戦意を高揚させていた新聞は検閲されており、もう誰が誰を焚き付けて架空のストーリーを描き誰が消費されているのかわけのわからない話になっています。

この「止める人がいない」というのは、おそらく客観的事実をもとに最適なアクションを示し、皆を説得できる優秀なマネジャーがいないということなんでしょうね。何故かというと、そういう人は組織の中で誰かしらに疎まれて出世を阻まれるか、「上にいる人間に気に入られる競争」においてトップになれなかったりするからじゃないかなあ。

このあたりの話でもっとも身につまされたのは、戦況が悪くなればなるほど新聞に客観的事実の報道が減り、忠烈がどうのとか必死になんだとかポエムが増えていくという話でした。事実をもとに語られないのは恐ろしい。

なお、佐々木氏友次氏は2016年に92歳で亡くなられたとのことです。