「打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?」はアニメで見るか、実写で見るか?

息子(小6)が「打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?」にちょっと興味があるとかで、少し前にノベライズ版を買ってもらっていました(読んだかは知らない)。

しかしこれ2017年にやったアニメ版のノベライズでしょ、アニメのは評判よくないみたいだし、実写のドラマや映画を観た方がいいのでは…と思ったら、Amazonプライムビデオにあるんですね。

だけど、ドラマと映画で撮り直したり映像をリファイン(?)したりしてるのか知らないけど、これは画質がまず厳しくて今の子供はその時点で嫌がるだろうな。ドラマが1993年ということで、この25年の映像技術の進化を思い知りました。それに「観月ありさ」とか「セーラームーン」とかネタに解説が必要だし…。

そもそも、小学生の体験としての「転校」感というのも、かなり違うと思われます。90年代に転校しちゃったら、それはかなり「永遠のお別れ」感があったけど、今なら小学生だってLINEで連絡とったりするのも珍しくないし、実際息子も離れて暮らす友達とちょいちょいLINEやら通話やらしてるし、SNSで再会みたいな機会も、それなりにありそう。もはや1993年の舞台装置のままでは通じないのかもなあ。

などと思案した結果、とりあえず2017年にリメイクしたやつから観とけばいいんじゃねえのと思いました。私もそっちのストーリーは知らないけども、ちらと聞く限りではタイムリープものっぽくなってるとか?

ドラマ版をつい見直してしまったけど、これノリミチ君がどこまでも奥手で、なずなに対しても男友達に対してもほとんど能動的に動かないところに味があると思うんけどなあ。自らの意思でタイムリープしているのだとしたら、どういう感じなんだろうか?

そして、少年時代の夏のほんのり甘酸っぱいような苦いような感覚というのは、今の時代の子も共有できるものなんでしょうかね。そういうものは大して変わらないもんなのかなあ。

「はてな」提供サービスの非対称性、攻撃性について

Hagex氏殺害事件について。私はHagex氏を特に知るわけでなく、たまにTwitterなどで流れてくる記事を読んではあまりお上品でないという印象を持っていた程度ですが、事件の報道で得た情報から、思うところを書いておきたいと思います。ほとんどは推測、想像です。

  • Hagex氏は、犯人をウォッチ対象として見ていなかった
  • 一方で犯人はHagexを強く意識していた。相手されなかったことが、攻撃性を高めたのではないか
  • つまり「ネット上のトラブルによる事件」ではなく「ネット上ではまともなぶつかり合いに至らなかったことによる殺人」の可能性はないか
  • こうしたわけのわからない攻撃性を持つ人間の受け皿として、現在はてなが機能してしまっていないか?

Hagex氏は犯人(容疑者)とされる人物について1回しか言及していない。だから殺害対象は実のところ「誰でもよかった」のではないか、という推測に違和感がある。ネットウォッチャーであるHagexにとって犯人は面白みのあるウォッチ対象でなかったのはおそらく確かで、だから1度のみ、しかもごく事務的な言及にとどまったのではないか。

一方で犯人は、はてなのコミュニティで目立つ存在であったHagex氏を極めて強く意識していたのではと想像する。Hagex氏は何度もはてなブックマークIDコールで暴言を送られたと書いているし、犯行声明とされる書き込みの“俺を「低能先生です」の一言でゲラゲラ笑いながら通報&封殺してきたお前ら”という言及は、Hagex氏が一度だけ書いた記事を意識したものであろう。煽り返して(まともに相手をして)もらえず事務的な対処しかされなかったことも、面白くなかったのかもしれない。

両者は非対称的な関係であった。そして、はてなのサービスの中でも「はてなブックマーク」というのは極めて非対称性と攻撃性の高い、コメントで攻撃される側にとってはたまったものではないサービスである。

コメントの一覧という形で悪意が吹き上がり、攻撃対象が反論する術はない(非表示にするなどはあるが)。攻撃対象になるブロガーなどへの悪影響については多くの人が長い間指摘しているはずだが、はてなはサービスを見直す意向を示したことは(記憶にある限り)ない。

犯行声明が書き込まれたはてな匿名ダイアリーは、匿名で発言するという点でこれまた非対称性の高いサービスであり、やり取りされる内容の攻撃性も高い。

今の主流はユーザーが1つのアカウントのアイデンティティを保持しながら周囲と交流するSNSだが、今どき匿名で言いたい放題という攻撃性の高いサービスを、なぜかはてなは提供し続けている。こちらもやめた方がいいと多くの人が指摘しているはずだが、はてなが見直す意向を示したことは(これまた記憶にある限り)ない。

今のネットにおいて、1ユーザーとしてのアイデンティティを保って交流しようという意思がなく、ただただ攻撃的に振舞いたいと考える人間が辿り着く最有力候補が、はてなになっているのではないか? という気がしてならない。これは「気がしてならない」だけで特に何かの事実に基づくわけではないので、できれば反証を聞きたいぐらいなのだが。

ズートピアと広報

ズートピア」を初めてテレビで観ました。とても面白かったんですが、中でも一番印象に残ったのが、ジュディが記者会見でしゃべるシーンでした。

まともな組織であれば、ああいう場で話すのは責任者か広報担当者です。しかも警察のような組織であれば手柄を立てた職員の名前を出すことはなく、ましてや本人に多くのマイクが集まった前で、メモすらない状態で話させることなんて、考えられないはずです。

そんなことをしたら、何が起こるかわかったものでは…と思ったらとんでもないことになってしまいました。 断片的な事実や仮説にすぎないものを、何の策もなく「時の人」の口から語らせてしまうことがどれだけヤバいことか。

それなのに何故「よかった」と言ったんだアイツは? と思っていたら、アイツがああだったんですね。なるほどねえ。

ズートピアでジュディがしゃべったのはストーリー上の必然性からの演出でしょうが、それがいかにリスクの大きいことかと、あらためて肝が冷える思いでした。

その後、問い詰めるニックに対し、ジュディはうまいこと言い逃れられず、記者に向けた発言と一貫性のある物言いをしてしまい、決別の決定打としてしまう。あの場面のジュディは正直で正義感の強いキャラクターだからこそああなっちゃうんだろうなあと…。

公的な場での発言は広報を通すのが大事ですね。そして、個人的な発言のつもりでうっかり仕事と重なることに言及したら拡散されちゃった、というのも危険ですね。

Windows Updateで「april 2018 update」にしたらPhotoshopが壊れた(メモリー不足、クラッシュ)ときの対処方法

Windows Updateが妙に時間がかかるなと思ったらバージョンが1803(2018.4.30配信の大型アップデート「April 2018 Update」)になってしまい、その結果Photoshop CC 2018が死んだ。というトラブルの対処に数時間を要してひどい目にあったので、問題と対処方法をメモしておきます。

起きる症状は、メモリが足りないとかいうメッセージが出てファイルが保存できない、補正をかけようとするとクラッシュする、など。環境設定で「パフォーマンス」などを選ぼうとすると、以下の画面写真のように「96から8の整数を入力してください。最も近い値を挿入します。」という意味不明なメッセージが表示されるのが特徴のようです。

f:id:kobaVGC:20180604232515p:plain

対処方法はAdobeのサポートサイトに載っていました。レジストリをいじってくれと。

無効な数値入力 - 96 ~ 8 の整数が必要です

環境設定を見るにあちこちの機能でエラーが出まくっていたので上記のメッセージに辿り着かず、また、当初April 2018 Updateになっていたのに気づかず2時間ぐらいWindows側に原因があるという発想に至らなかったので、原因の特定にどえらく時間がかかりました。

これからうっかりアップデートして同様の問題に行き当たった方にお役に立ちますように。

9回出撃して9回生還した特攻隊パイロットの実話「不死身の特攻兵」(鴻上尚史)を読んだ

「特攻に9回出撃し、爆弾を落として9回生きて帰ってきた人がいるんです! しかもまだ生きてると知って、僕はその人に会いに行ったんです!」 と、一時期あちこちのラジオ番組に鴻上尚史氏がゲスト出て、そのたびに興奮気味に語っていたことがありました。

「特攻に」「9回も行って」「(特攻でなく)爆弾を落として」「9回」「帰ってきた」「しかも21世紀にも生きてる」という聴いただけでは意味のわからなすぎる話に、俄然興味を惹かれて買いました。

驚くほどの飛行機好きっぷり

本書は元特攻隊操縦士の佐々木友次(伍長)から鴻上氏がインタビューした話といくらかの資料をもとに、佐々木氏の生涯を紹介し、特攻隊および日本型組織に関する考察を行うものです。ちょうど日大アメフト部の問題なんかにも重なるテーマとなっています。

佐々木氏は幼少期から飛行機が好きで、けっこうな難関であったらしい試験を通って逓信省の航空機乗員養成所に入り、予備役となります。その後陸軍初の特攻隊万朶(ばんだ)隊の一員として指名され、戦地であるフィリピンに向かったそうです。

「万朶」とは多くの花を付けた枝のことで「朶」とは垂れ下がった枝の意味だとのこと。「耳朶」以外での使い方を知らなかった。

本書でポイントとなるのは、以下の点です。

  • 佐々木さんが自分の操縦技術に自信を持っており周囲の評価も高かった。周囲の評価と同情が生還につながったと思われることもあった
  • 「威力不足で敵航空母艦を沈められない」という特攻戦術への不信があった
  • 上官が「爆弾を落として帰ってくる」ことが可能な環境を整えてくれた。おそらく初代特攻隊だったからこその葛藤と工夫があった
  • 特攻で死地に赴くためでも飛行機に乗れば心が躍るほどの飛行機ガチ勢だった
  • 佐々木さんが下士官(伍長)であり、士官ほど責任を追及される立場になかった。参謀に「特攻は無駄」とか言って怒られ疎まれ懲罰的な処置を受けてもギリギリ生きていたのは、確定で死ぬほどの懲罰には至らなかったためと思われる
  • 爆撃を受けて数メートル離れたところにいた同僚は死んだけど自分はかすり傷で済んだ程度に強運だった

実に凄まじい話で、こんな人が実在したのか! という驚きがありました。

「止める人」がいなくなる日本型組織

終盤の第4章に、特攻と日本型組織に関する鴻上氏の考察があります。特攻ではパイロットを「志願」させるために上官があの手この手で圧をかけたという話にを今読めば、ここでもアレか…と感じるでしょう。一方でなぜ日本軍が特攻を始めたかという考察では、特攻先述の考案者とされる大西瀧治郎中将の次のような言葉を引いています。

天皇陛下は、このことを聞かれたならば、必ず戦争を止めろ、と仰せられるであろう」

これは、インパール作戦について牟田口廉也中将が「俺の表情から察してこの作戦やめましょうって言ってほしかった」みたいなことを言ってたとされるのと同じヤツか?

日本型組織は始めたら止める人がいない、特攻を始めた頃でも国民の戦意は高く、特攻隊員は新聞のストーリーとして消費されていったのだ、といった意味に取れる考察が行われます。戦争の「所与性」(ここでは「前提としてあるべき状態となっていること」ぐらいの意味か)というのは、考えたことがなかった。

国民の戦意を高揚させていた新聞は検閲されており、もう誰が誰を焚き付けて架空のストーリーを描き誰が消費されているのかわけのわからない話になっています。

この「止める人がいない」というのは、おそらく客観的事実をもとに最適なアクションを示し、皆を説得できる優秀なマネジャーがいないということなんでしょうね。何故かというと、そういう人は組織の中で誰かしらに疎まれて出世を阻まれるか、「上にいる人間に気に入られる競争」においてトップになれなかったりするからじゃないかなあ。

このあたりの話でもっとも身につまされたのは、戦況が悪くなればなるほど新聞に客観的事実の報道が減り、忠烈がどうのとか必死になんだとかポエムが増えていくという話でした。事実をもとに語られないのは恐ろしい。

なお、佐々木氏友次氏は2016年に92歳で亡くなられたとのことです。

日大アメフト部、特に「曖昧な指示」の問題

この件、誰もが選手としてタックルさせられるハメになりうるし、また「指示していない」と心の底から言ってしまう立場にもなりうると思い、非常に関心を持って見ています。

追い詰められ「空気を読み過ぎて」しまった結果も罪なのか?

監督もコーチも、おそらく相手チームの選手をどうしてもケガさせたいとは考えていなかった。詳しい理由はよくわかりませんが選手に何か気に入らない点があって干し続け、途轍もないレベルの忠誠心を見せれたら扱いを考え直してやらんこともない、ぐらいの気持ちで、最悪でかなり深刻なケガをさせる可能性もある、曖昧な指示を出したのでしょう。

選手は長期間に渡って追い詰められた結果「空気を読みすぎて」しまった。サービス精神というとナニですが、過剰に空気を読み、言葉のそのままの意味以上に求められることをやってしまったのだと思います。これもまた忖度か。

ある種の便利な「鈍さ」を持ち合わせない人が追い詰められていったら、誰だって同じようになるでしょう、おそらく。

「指示していない」は意外と本心ではないか?

監督もコーチも、どうも試合終了直後は「ホントにやりよったわ!」ぐらいに思っていた感じがしてならない。しかしコトが大きくなった段階で、心の底から「そんな指示はしていない」と、脳内でストーリーを切り替えちゃったんじゃないかなあ。曖昧な指示から取れる意味の範囲で。

誰しも、相手が気を利かせてくれることに期待しつつ曖昧なことを言ってしまうことってあると思うんですよね。「いやーこれ普通にやったら3日はかかるだろうけど明日上げてくれたら嬉しいなあ」という意味で「なる早でお願いします」とか言っちゃったり。

で、そのとき、相手がサービス精神にあふれた返事をしてくれたら、つい都合のいい方向に期待してしまう。一方でクールに「なる早っていつですか?」と返されたら、頭を冷やしてえっとーそうですねー…と考えざるを得ない。

監督やコーチが「潰せ」とか具体的な意味が曖昧なことを言った結果がこんなことになったとき、一種の防御機能としてあとで記憶を都合よく作り替えることもあるだろうなあと思いました。自分が描いた「潰せ」はそんなバレバレかつやりすぎではなく、もっと上手いことこう…つまり、広報を通して言っていた「指示していない」という話は狡猾な嘘や言い訳ではなく、彼らにとってはわりと(現時点での)本心ではないか、それだけに、よりタチが悪いなと。

そして「潰せ」のような汚い言葉を使うのは、単にお下品であるだけでなく、ひどい意味まで含んでいるという点でもよくないなと。

さんざん圧力をかけられ、曖昧な指示の意図を言葉の意味以上に読み取った結果「そこまでは言ってない」事態を引き起こした場合、実行側と指示側にどのような罪や責任が発生するのかがまったくわからず予想もつかず、裁判の結果を見守りたいと思っています。

選手は救われてほしい。やむを得ない理由で道を踏み外してしまったあとでも、正直で真摯であることが最善の生き方だと証明されてほしいです。

「マッハ新書」とは何ぞや

マッハ新書とは、マッハで書いて売る電子書籍のこと。昨日(5.20)「マッハソン」というイベントが行われていましたが、私は所用で参加できませんでした。それ以上の詳しいことは調べよう。

マッハ新書を読もう! - BOOTH

マッハ新書について私が感心を持つのは、次の3つの点です。

  • 一部のコミュニティで流行
  • 12時間ぐらいのリミット内に一気に書き上げ、あとでアップデートも可能
  • 一般的な電子書籍の相場感からすれば高めの値付け

対話的に読まれ、書かれる

マッハ新書は、提唱者であるGOROmanさんとその賛同者やファンの間で流行し、互いに書いたり読んだりされています。一定のコミュニティを読者と想定できることで、ハイコンテクストな記述がOKになったり、ある程度のミスや内容のゆるさが許容されたりもするでしょう。

愛読書「声の文化と文字の文化」では、手書き本と印刷本の比較として、こういうことが述べられています。いわく、手書き本は生産者指向、生産者中心であり、内容は略号に満ちている。略号だらけの記述は読者にとっては不親切である。

声の文化と文字の文化

声の文化と文字の文化

そして手書き本は対話的に読まれる。読者は本に書き込んだり注釈を付けたりすることがあり、その内容は次の写本において本文に組み込まれることもある。

一方で印刷本は、印刷のための「版」を作る段階で徹底的に読みやすく編集される。印刷本は読者指向であり、読者に親切である。そしてテクストは完全に閉じられる。書き込みは書き込みであり、それが本文に影響を与えたりはしない。

内容をだいぶ丸めて書いたのでそのままの引用ではありませんが、マッハ新書とは、手書き本の特性を強く意識した活動と捉えることができそうです。

書き手へのリスペクトがお金で支払われる

Webのテキストにも似たような特性はあるわけですが、「マッハ新書」という独立した形になることと、互いに買いあうことで「書き上げる」行為へのリスペクトを目に見えるうえに実益のある形でやりとりできることが、Webとの違いでしょう。

ある程度のコンテクストが共有され、互いにリスペクトのあるコミュニティにおいて、こういう活動はすごく面白いと思いましたし、そういうコミュニティはいいなと思います。